ものごとを見極める分別には、直感的な仮称「第一の分別」と理論的な仮称「第二の分別」の二つの分別があります。
「こころの目」とも云える前者は、私達のDNAに何十億年の間に刻まれ、繰り返された体験や見聞から脳裏及び永きにDNAに刻まれ自然淘汰され優位に存えた経験的且つ生物的な嗜好(このみ)に基づく無意識直感的反射的敏速な良し悪しの判断で、後者は前者の意図に従った理論的に意識上で計算立てして良し悪しを考える判断です。
あえて貢献度を比較するのであれば、近代二世紀足らずの間に実に大きい成果を積んだ「第二の分別」は偉大であるとも言えるが、宇宙時間規模の数十億年の間で私たち生物を生き長らえさせてくれた「第一の分別」は比較にならないほど貢献して来ていることは否むことは出来ません。
それに、「第二の分別」は、「第一の分別」の認識と意図がないと始まりません。私たちが事を間違いなく運ぶには、「第一の分別」が明瞭であってこそ「第二の分別」である検証が正しく行われ、具合が悪ければ次を探って再確認を行って行くことになります。この繰り返しで、物事が段々と上手く運ぶようになって行きます。
科学技術が絶対視される現在では、とかく「第一の分別」が「勘ピュータ」などと軽視されがちですが、この分別のメカニズムを認識理解していない者では、専門家であればあるほど自分の判断は正しいと思い込み、「技術があれば優れた製品ができる」と思いこむようになって、「ガラパゴスシンドローム」に陥いり易くなります。
最近の経済状況や大きな事故での特色は、正誤かまわず「第二の分別」を基にしたハード技術的な優位の願望に目を拱き、「第一の分別」が機として働かねばならないガバナンス(ソフト面である取扱や管理)を軽視した結果で、最近に起きていることが顕著になって来ています。どうも私たちの思考の原点であるスタンスから歪みを生じているようです。
多くの方々の「第一の分別」が主に反映される本来の北欧的な「ポピュリズム」を、日本の先に立つ者でも”大衆迎合”と誤って用語されています。あくまで行政役務や商品を利用されるのは大衆である国民や市民であって、その思いを軽視できません。
湯気が立っていれば触らずともコップの水は熱いと感じ取れます。そしてコップが手で触られぬほど熱ければ、当前なことですが其れを飲めば舌を火傷するでしょう。触ったり飲んだりした体験から学習した「第一の分別(判断)」の簡単な一例です。
スポーツも幅広く方法を変えてみて初めて最良ポイントが練習の中で身について来ることも同じことです。これらの無意識に反射的に分別を行っていることが、わたしたちの行動の99%を制していることを意識したことがありますでしょうか。あれやこれやと考えても、心の底で思っている或いは感じて既に断じていることはこの分別の働きです。
「どこで(コップ)」で、「どの様な(湯気が立っている)」「いつ(その時)」、「結果(コップの水は熱い)」と云った、「時間」と「場所」と「条件」毎の「識別」と「結果」への関心や認識とそして記憶のメカニズムを、あえて理解するとことで、「第一の分別」をより効率的により効果的により正確に働かせることができます。また、其のメカニズムを理解できるとともに、好奇心である目の配り方、関心の取り方が変わって来ます。
机上だけではなく広く様々な体験或いは経験を積むところで、この分別や判断の正確さが危機回避の洞察力として育まれて行きます。複雑な航空機の操縦に於いての訓練や副操縦士としての経験や、工学に於いての自ら目と手を使った実習や実験による実体験が、いかに大切であるかが窺えます。こどもの頃から多くの友達との遊びや自然界に馴染む海あそびや農業体験などの広い経験で育んだ、動植物はもとい、人の想いや痛みを感じとる感性(慣性)を養うことが、テーマの「ガラパゴスシンドローム」を避けられる唯一の手段になります。
チェルノブイリの事故やスリーマイル島の事故を通して、米国やドイツやスイスが先駆けて手を打ってあった電力の完全喪失の対策やメルトダウン等で原子炉が壊れた時のベント対策を、関係者はどう感じていたのか、それを知っていながら対策を打たず、福島原発の有ってはならない、あれだけの惨状を犯してしまいました。独りや数人で行う事業であったら、過失や障害罪或いは殺人罪に問われる事柄です。
最近、英国では、企業や行政や法人の長も、理由に関係なく結果に応じた刑法的な責任を問うことができる法制化を行い、同様な社会的な歪みに対しての是正効果が顕著に表れて来ているとのNHKの放送がありました。英国はさすがに思想ともに先進国です。
「優れた技術があれば市場を制覇できる」或いは「力が有れば必ず勝つ」と言う見方は、「お客が喜べる製品を造れるところに優れた技術がある」と言う古来からの見方と全く正反対な見方です。我が国の活性のなくなった内向きな今を見れば、前者の見方で没頭してきた今世紀の「終焉」であることは否めません。沢山の破産宣告された市町村を抱かえる結果を見ると、どうしても対立を産んでしまう資本型米国型といわれる「第二の分別」を優先視するところと、後者の「結果」とその「成立ち(トレーサビリティ)」を優先視する共生を目標とする北欧型といわれる「第一の分別」を根底にするところとでは、相い対する「経済状況」を生みはじめています。
かつての奈良朝や平安朝の時代の何度もの遣唐使や明治の欧州へ出掛けた岩倉使節団のように、広い視野を持とうとした方々が活躍した時代のように、いつ、どこで、何をどうしたとき、どのような結果になっているか、幾重に繰り返して、自立した自由かつ広範囲な現場の体験と見聞による「第一の分別」を、偏よらずして用いることが大切です。
世界には様々な考え方が有るが、一国の中にもその多種多様な世界をトレースすることも可能です。標準化を良しとする効率的利益ばかりを目標にすることを止め、異なる価値観を自由奔放に持てる環境を創ることによって、そこに最も効率的且つスピーディな発展の要素を探し採れます。乱雑の中に、真価を見極められる自然の節理(原理)があります。行き過ぎた「資格化」や「規制」や「標準化」は、停滞や計り知れぬ無駄や弊害や「事故に陥る逆効果」になる場合があります。
政治活動でここに記載するのではありませんが、実際に現地に立って見比べると歴然で、車は高給者でなければ乗れない税制でバスや公共料金が極端に安く住まいの近くで買い物をする昔の交通事情を維持し何処にもシャッター街路が無くキャッシュレスなど様々な技術導入の早い中国と、軽やコンパクトカーが多く買物難民が増えつつある、利権の影響か切り換えが遅く、事が起きないと想起もなく事前対策が遅れる一方で事故や災害が多くなって来た赤字大国の日本との比較で、国民全体の「良し悪しの注意の範囲」の差に気付きます。日本の要人は中国へ行き、かつての「遣唐使」を果たす必要があります。ドロー技術の進む現在では役に立たないイージスアショアや自衛隊の兵器の予算は、災害予防や教育や医療や税の軽減へ振替える必要が歴然です。
「第二の分別」の中核になっている、米国でその多くを培われた近代統計分析手法が、フリー百科事典 Wikipedia にて当手法の代表格である「多変量解析」から「重回帰分析」を索引参照し其処の「結果の見方」項の文末に「予測を行うことはできてもその方向に因果関係があることは保証されない」と書かれているとおり、指数である「相関比数や分散比(F)や確率(%)など」では、予測の「 保証 」をすることができません。加えて分析者の任意で計算から外された範囲の中で生ずる出来事は、全く予測に含まれなくなります。つまり科学技術とは、本来もこれからも人為的錯誤(フューマンエラー)を伴い、「ゼロリスクは絶対に有り得ない」中で、日々改良されて行く「 技術 」です。私たちが行う限りフューマンエラーである「想定外(予定外)」は付きものです。それを克服するところに進歩があります。であるからこそ、めげて諦めては、夢や希望は叶えられません。
この30年の間に起きた日航機やJR西鉄道や原発事故の影響は半端な事ではありません。その中でもチェルノブイリや福島で起きた事故は、取返しもつかない国土を廃墟にしかねない目に見えず身体の内側から障害を与える放射能を伴う公害とは次元が異なる問題です。科学技術には「想定外のリスク」が常に付きものである以上、パンドラの箱と例えられる原子力による発電方法は、「すみませんでした」では済まされない、人類の破滅を招きかねない、スリーマイル島を加えて3度も放射能を放出する元へ戻れない「不可逆性」を帯びるメルトダウン事故を起こしている問題のある発電方法です。
H25年4月11日の有力新聞Y社の「原発新規制基準」を評じた「 ゼロリスクにとらわれるな 」とタイトル付けされた文節で「 あまりに非科学的な要求だ。むしろ、活断層が動いても大丈夫なよう安全設備の強度を増す工学的な対応を優先すべきである。 」と記載した社説があったが、福島の原発事故を経て、原発を中止することにした科学技術立国である先進工業国のドイツやスイスのような分別もある中で、日本では最高の技術があると「おごる」上に、「安全対策は完全でゼロリスクである」と事故以前に何度も「当社の紙面上で広告を載せていた」にも係わらず、使用済みウラン棒や汚染物の処理方法も決まらず、汚染水の漏洩事故を繰り返えす中で、どのようにして「大丈夫な」安全設備を設計し「ガバナンス」できるのであろうか、福島や周囲他県の県民の永遠に続く迷惑を感じ取る健全な「 第一の分別 」である「 感性 」もなく、ガラパゴスシンドロームより重篤な「 推進派の宣伝行為 」と受け取られかねない、書き放しの無責任極まるトンデモナイ 如才のない記事である。Y社も、いずれか瓦解する運命が見て取れます。 三度も重大な事故があった原子力発電にこそ、「ゼロリスクのこだわり」が必要です。
NHKスペシャル「MEGAQUAKEⅢ」の副題、第一回「次の直下地震はどこで」の番組での内容では、国土で表に現れている数が2千ある中でクライストチャーチや神戸や淡路島や先日の熊本のような直下型の大地震を起こす無数に有るとされる、隠れた活断層は未だに全容を見定められていません。
科学技術の「想定外」と同じで、その地表から「隠れて見えない」無数に有るとされている活断層に対して日本で40万年とした新しい基準の年数も、米国の180万年までとする活断層の見極め基準からすれば、「原発新規制基準」は「 矛盾 」を残した欠陥基準に他なりません。日本の国土では立地する場所がないことを正に暗示した矛盾です。
「地表では見えない」地震の跡である断層が平均横10メートルおきに有る、崖下に遊歩道のある「 ジオパークである銚子市の屏風浦の海侵崖 」は、永い年月を経て如何に多くの地震の痕跡を目のあたりに見える原発立国には当然に不向きな日本列島の地盤を理解できる地学上で大切な土地です。
NHKテレビで再放送があったウクライナ政府が訴え続けている発症報告で、チェルノブイリ地区のヨウ素の放射能の半減期に一致する幼児の甲状線癌は認めるものの、成人の甲状線「癌や血管の障害や脳梗塞や脳溢血や狭心症や心筋梗塞など循環器を中心にして全身に渡る緒症状が、低汚染地区である1ミリシーベルト前後のところを含めた当地で事故を起点に直線的に増えつづけた25年間の統計比較で発症のトレーサビリティが明らかにされているにも関わらず、ウクライナ政府の報告を我国政府もIAEAもいまだに認知をしていないそうです。
「その因果関係は科学的疫学的な立証が無い」云々と口述する旧原子力規制委員会の白髪の老齢な委員の姿も写し出されていましたが、人身の安全や健康を対象にする「製造物責任法」や「公害問題の判例」と同じく、製造者に相当する推進する側の委員が発症に対する疫学的或は科学的に説明する責任があることは現時代では当然のことです。チェルノブイリの疫学的な実態分析が終わらない内には、避難区域の設定は更に厳しくしなければなりません。NHKの放送のごとくチェルノブイリのその湿舌に絶えない健康問題は、福島や周囲の他県を含めて現在進行中の他人事では済まされない最も優先しなければならない重大な問題です。チェルノブイリや福島で、熊本の「特定な範囲と時期で発症した」カドミウムのように「 公害 」を繰り返してはなりません。「科学的な因果関係の立証が無いから問題は無い」とするその委員の発言も、脆弱な「 感性 」で経歴を疑うほど無知な、非科学的、本末転倒、最近の判例も度外視した時代錯誤な、見苦しい金欲にまびれた大企業ファーストの理念からか、或はアルツハイマーの発言そのものです。
ことある毎「神話を信じてしまった」と非科学的な口上をしてきた、「優れた技術があれば良い製品ができる」と過信して来たガラパゴスシンドロームに陥っている日本経済は、為替利益やペーパー資産を潤わせるお金の流通の問題ではなく、健全な「 感性 」を伴う「 第一の分別 」を優先して、地方の産業を活かす 人も物も豊かな地産地消な職人的な仕組みをマッチさせた先進科学と先進的な社会のしくみを有する北欧型社会に党派を越えて変えて行かなければ、国土も人も脆弱化する一方です。 株価やGDPすなわちマクロな金銭の潤いが、人々の幸せのバロメータではありません。
パソコン2台で制御できるイプシロン・ロケットも出来たではありませんか。「お客さまが喜ぶ製品を造れるところには優れた技術がある」といった見方からすれば、優れた者が開発すれば比べて費用も掛からない如何に効果的に役立つオペレーションシステムで使われるかで、スーパーコンピュータのハード的な能力も必ずしも一位がベストとも言い切れないのが、真(ほんとう)の技術の評価ではないか。
原発が無ければ国際競争に負けると言い切っている人がいまだに居ますが、資源が乏しいとされてきたが最近では豊かな海底鉱山も見つかり、これからは国内も同じく国際的にも競争から協調の時代に入いります。
「ガラパゴスシンドローム」は単に風邪のごとくで、日本では皆んなが幸せと思う国造りが必ずできます。目をそむけることなく過疎化の実態を直視し放置せず、地方の掛け替えのない国土と自然と、人の営みである地域の産業を、収税と権限を地方自治に委ね、守って行こうではありませんか。
体制を批判する目的ではなく、考え方の原点について議論し、より良い社会づくりに寄与できればと筆を執っています。古来から引き継がれた日本の「自然に馴染む人と文化と習慣と産業」と「真の技術力」とのコラボレーションに期待して止みません。